博多人形の沿革

博多の南部筑郡水城村(現在紫郡大宰府町)の古刹観世音寺(天智帝建立)付近の裏山から出土した俗に「百万塔」は、山地の粘土を用い、二箇の土型をあわせて作られた高さ二寸位の素朴な土俗人形の先駆的な素焼きものであると考えられている
およそ文物の発生は、環境と機縁の条件によることが多い。古来、博多周辺の山野に人形土に適する原粘土の豊富な天恵があったこと、徳川期の文化爛熟を示す文化、文政の時代を背景にして美術工芸の発達著しく、博多にも陶人形を創出したという一連のつながりは、事の発生の偶然ならざるを物語る。さらには、遠く古代中国文化の歴史の炎が、朝鮮文化の淘汰を経て脈々と息づいている。
古来言い伝えられることとして慶長6年(1601年)黒田長政公が筑前を領して舞鶴城を構築に当たり、長政に随って播州から中津を経て博多に来往した瓦師正木仁右衛門の孫で、初代宗七という人がいたって器用で城の瓦を作る余技に鬼瓦をヒントを得て人形を作り、藩主に献上したのが博多人形の起こりで、当時は宗七焼として二代、三代、四代とその製法を伝統化し六代に及んで精巧な土偶を見るようになったと伝えられている。
博多人形の文政年間に微々たる土俗人形として生まれていら、180余年を経過した平成の今日迄にいたる伝統の推移を考えるとき、今日美術工芸品の領域に達する迄の長い春秋の間、幾多の人形師達の涙ぐましい努力が続けられてきたことは、いうまでも無いことであるが、中ノ子吉兵衛を始祖とする土俗は型人形は、その始祖と宗七焼宗家との関連浅からず、今日の郷土へ医術の道をなした。同時に後継者育成も盛んであり、明治の初期に於いて伝統技法を守りながら、原材料の改良、技術の研究進歩をなして、現在の博多人形の母型を生み出し今日に至っている。
博多人形の銘題は、明治23年4月第2回全国勧業博覧会が大阪で開催された時「博多素焼人形」として作品を出品、博覧会から褒賞状が授与されたがその褒賞状に銘題「博多素焼人形」の素焼の二字が抹消され、単に「博多人形」と記してあった。
 幕末以来の慣用の銘題「博多素焼人形」がここに一転して博多人形となり、この時から博多人形の公称が確定し、歴史的にもひとつの転機を促すに至った。明治33年仏国パリ万国博覧会に美人物博多人形を出品、大好評を博し、博多人形の声価を高揚し、更に研究進歩により、他に類の無い芸術の香りの高い今日の博多人形に発展したのである。
昭和51年2月、通商産業大臣より「伝統工芸品」に指定された。